「みみずくは黄昏に飛びたつ」の名言集
みみずくは黄昏に飛びたつ
出版社:新潮社
単行本発売日:2017/4/27
単行本:345ページ
P.21
小説を書くというのは、言うなればアクシデントの連続だから。小説の中では、多くのものごとは自然発生的に起こっていかなくてはならない。ここではこういうエピソードを使っておこう、みたいなことをやっていると、話はもちろんパターン化していきます。ぱっと出てくるものを相手に素速く動いていかないと、物語の生命はが失われてしまいます。
P.70
小説を書かなくなったら、青山あたりでジャズクラブを経営したいですね。ハンフリー・ボガートみたいに蝶ネクタイ締めて、ハウス・ピアニストに「その曲は弾くなと言っただろ、サム」みたいなことを言って(笑)
P.97
日本人は自分たちだって戦争の被害者だという意識が強いから、自分たちが加害者であるという認識がどうしても後回しになってしまう。そして細部の事実がどうこうというところに逃げ込んでしまう。そういうのも「悪しき物語」の一つの、何というのかな、後遺症じゃないかと僕は思います。
P.99
いつも言ってることだけど、とにかくわかりやすい言葉、読みやすい言葉で小説を書こう。できるだけわかりやすい言葉で、できるだけわかりにくいことを話そうと。スルメみたいに何度も何度も噛めるような物語を作ろうと。一回で「ああ、こういうものか」と咀嚼しちゃえるものじゃなくて、何度も何度も噛み直せて、噛み直すたびに味がちょっとずつ違ってくるような物語を書きたいと。でも、それを支えている文章自体はどこまでも読みやすく、素直なものを使いたいと。それが僕の小説スタイルの基本です。
P.116
頭で解釈できるようなものは書いたってしょうがないじゃないですか。物語というのは、解釈できないからこそ物語になるんであって、これはこういう意味があると思う、って作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなの面白くも何ともない。読者はガッカリしちゃいます。作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている。
P.189
僕にとっては文章がすべてなんです。物語の仕掛けとか登場人物とか構造とか、小説にはもちろんいろいろ要素がありますけど、結局のところ最後は文章に帰結します。文章が変われば、新しくなれば、あるいは進化していけば、たとえ同じことを何度繰り返し書こうが、それは新しい物語になります。文章さえ変わり続けていけば、作家は何も恐れることはない。
P.192
僕は文章を書くのが好きなんです、結局。いつも文章のことを考えている。いつも何かしらの文章を書いている。いつもいろんなことを少しずつ試している。文章というツールが自分の手の中にあるだけですごくハッピーだし、そのツールのいろんな可能性を試してみたいんです。せっかくそういうものを手に入れたんだから。
P.315
--- 死後に「村上春樹賞」という賞を作ってもよいか?という質問を受けて
書いといてください。僕の名前を冠した賞だけは絶対にやめてください、と。だいたい誰が選考委員になるか考えただけで……いや、その話はいいけど(笑)。たとえば奨学金をあげるとか、そういうのなら喜んでやりたいけれど、賞みたいなものだけはやめてもらいたいです。
P.335
南京大虐殺の問題を例にとると、否定する側には想定問答集みたいなものがあるわけです。こう言ったら、向こうはこう言い返す。こう言い返したら、今度はさらにまたこう言い返す。もうパターンがそっくり決まってるわけ。カンフー映画の組み手と同じで。ところが、話を物語というパッケージに置き換えると、そういう想定問答集を超えることができるんです。向こうもなかなか有効には言い返せない。物語に対しては、あるいはそれこそイデアやメタファーに対しては、何を言い返していいのかよくわからないから、遠巻きに吠えるしかない。